2022.02.25 (金)

山村先生と巡る益田ブラブラ散歩

川とともに時代を生きる。現代にも息づく中世益田の史跡を訪ねて 時を超えて中世の風を感じる町・益田

益田市は島根県西部に位置し、中国山地を源流とする高津川や益田川が主要河川として市内を流れ、美しい海岸線を持つ日本海へと注いでいます。河川下流域には三角州になった益田平野が広がっています。
中世に地理や地形を生かし、大きく発展した歴史を持つ益田。
市内には今でもたくさんの中世遺跡が残され、今も発掘と研究が続けられています。そんな中、令和2(2020)年6月、「中世日本の傑作 益田を味わう -地方の時代に輝き再び-」が日本遺産に認定され、改めて地域の歴史的資源の再評価、歴史にまつわるスポットへの魅力と関心が高まっています。
ここでは京都大学大学院教授 山村 亜希先生の解説と、益田市歴史文化研究センター中司 健一さんとともに廻った、中世と現代の交差点・益田の史跡をご紹介します。
地理と歴史の研究に造詣の深い山村先生と一緒に、中世益田の歴史旅に出かけましょう。




地形を味方に!益田の輝きの時代

益田市は、豊かな山、川、海が生み出した特徴的な地形を活かして、暮らしや経済活動が行われてきました。日本一の清流と呼ばれる高津川や益田川から食、環境、酒造りや農作物栽培、川遊びや癒しなど、様々な恵みを受けながら町が形作られてきました。

そもそも中世とは、いつの頃を指すのでしょうか。
中世とは、古代と近世に挟まれた時代のこと。鎌倉時代と室町時代、安土桃山時代を合わせた約400年の期間を指します。一般的に、江戸が政治の中心となり江戸幕府と全国各地に藩ができる前の時代のことで、「関ヶ原の戦い」の頃までを指します。


中世の益田は現在とは地形が異なり、高津川が益田川に合流し、河口付近は潟湖のようになっていました。この潟湖が天然の良港となり交易の拠点となりました。さらに上流域の中国山地は材木や鉱山など豊富な資源を産出し、河川が内陸部と河口域をつないだことで、地域の天然資源を輸出することができました。
また、益田は日本海を挟み、ユーラシア大陸、特に朝鮮半島と近距離の位置にありました。これは、逆さ地図で見るとよくわかります。このような交易に有利な地理であったことも、益田を発展に導きました。


中世益田の潟湖の沿岸に成立した港町のひとつが「中世今市遺跡」です。
益田川の支流・今市川沿いに江戸時代に組まれた石垣が残っています。
今市の町は、潟湖と今市川を利用した舟運を最大限に活用できる場所であったと考えられます。日本海からもたらされた物資を川船に積みかえたり、陸路で運んだりする拠点となっていました。発掘調査の結果、河岸に石を敷きつめた中世の舟着き場、荷揚げ場の跡が見つかっています。現在の町にも、川に下ることのできる小道が残っています。


この石垣は上述のとおり江戸時代のものですが、中世から続いた川沿いにつくられた「市場」が江戸時代にも機能していました。
高津川の旧河道のひとつが、桑原酒場近くの小川です。
ここは現在の高津川河川敷まで徒歩5分という場所にありますが、以前はここが高津川であり、もっと川幅は広かったと考えられています。


桑原酒場は、1903年創業。
高津川の伏流水を使い、米本来の旨みや味わいにこだわった酒造りを行っています。桑原酒場は、高津川の水を味わえることから日本遺産の構成文化財のひとつとなっています。


今市よりも前に、港として使われていた場所も見つかっています。
その港町跡が、「中須東原遺跡」です。
ここは、土地区画整理事業時に発見された遺跡で、礫(石)を敷き詰めた舟着き場や、道路で区画された街区、鍛冶場跡などの遺構が発掘されました。現在は埋め戻され、遺跡の説明看板が設置されています。
港と言っても当時のものは桟橋や波止場があるわけではなく、水際に舟を着岸させ、そのまま陸地へと引っ張りあげるような形式でした。
この港は、前述の潟湖の沿岸にあり、この地形が日本海の強い波風を遮る湾の役目を果たし、舟の出入りしやすい環境を生み出しました。
港町には多くの建物が並び、物の売り買いなどで賑わいを見せていました。また、中国・朝鮮の陶磁器、タイやベトナムなど東南アジアの陶器、さらには国内の陶磁器の破片などが見つかるなど、国内外を問わず交易が行われていたことがわかります。


この中須東原遺跡の北には「福王寺」があります。
ここは、中世の時代、港と関連する寺院として交易に深くかかわっていたと考えられています。
益田には、寺号に「福」がつく寺が5つあったとされ、そのひとつ「安福寺(現・萬福寺)」があった場所から発見されたという「石造十三重塔」は現在、この福王寺に置かれています。


この十三重塔、安福寺時代に一度津波で流されたとの伝承がありますが、中司さん曰く、福王寺境内で再度積み上げられた時、積み上げる順番を間違えたのではないかとのこと。確かに下に向かって広がるような美しい台形にはなっていません。さらに、再建時に全ての屋根が見つからなかったのか、現在は十一重しかありません。

十三重塔の周辺には、石塔や墓石などが置かれています。これらのうちいくつかは兵庫・六甲の花崗岩製であると言われており、瀬戸内海を通して関西方面への交易を行っていた証であると考えられます。その他にも若狭・日引石製や石見銀山近くの福光石製のものも含まれ、海を通じて様々な地域と交流があったと思われます。


そのまま寺院裏手の墓地へと進むと、そこは砂地。つまり砂丘で、中須の港を日本海からの強風から守る役割を果たしました。現在も残る砂丘を南北に横断し遺跡につながる道は、中世以来のものと考えられています。

益田の交易による繁栄はこのように、川とその流れによって河口に形成された潟湖が大きな役割を果たしました。そして、中国山地の豊かな自然によってもたらされた材木や鉱物などの資源は川を通して運ばれ、さらに港を通して世界へと流通していきました。そして逆に交易で得た物品と文化が港から川を通って町へと運ばれ繁栄していくという、“河川を最大限に活用した経済活動”があったことがわかります。




益田を築き、治めた実力者―益田氏―

上述のとおり、中世の益田が発展してきた理由は地理的要因を活かしたことが大きかったと考えられています。
その経済的発展を支えたのが政治力。領主益田氏は、その優れた政治手腕で安定的な平和を益田にもたらし、交易による繁栄を支えました。


織田信長の安土城以前、中世には各地で山城が造られました。
益田を代表する山城が七尾城です。
七尾城というと石川県のお城を思い浮かべる人も多いかもしれません。しかし、益田市の七尾山に築かれた益田氏の居城「七尾城」も石川県の七尾城に負けるとも劣らない立派なお城です。
ここは七尾山全体を使って築かれた城で、端から端までは全長約600mにも及び、尾根全体が要塞化された壮大な中世の山城です。


山村先生によると、城攻めに対する守りや地形をどのように使って築城したか、この場所に築かれた理由などを知ることが山城の楽しみ方。まずは登らなければ話になりません。
「七尾城は高すぎず、城としても使い勝手が良かった」と山村先生。
南北朝時代は尾崎丸にあった本丸は、だんだんと高い場所へと作り変えられていきました。
今でも益田平野とその先の日本海までが望める、景色抜群のロケーションです。


七尾城には土塁、堀切、礎石、井戸跡など往時を偲ばせる遺構が残っています。
益田氏は津和野の吉見氏と対立。吉見氏は毛利氏と関係を結んでいたこともあり、毛利氏に対する防衛も視野に入れ、防御性に富んだ城を作る必要があったと考えられています。


また、七尾城の中心部では庭園跡も発見されています。七尾城に客人をもてなし、公的儀式などを行っていた場所が設けられていたというのは興味深い事実です。それらは文献や発掘の様子からもわかります。
19代当主の益田藤兼が七尾城に住んでいた時代と、七尾城から見つかる日常使ったものとみられる土器やかわらけなどの遺物の年代が同じことから、16世紀後半には益田氏は家臣とともに七尾城に居住していたとみられます。


山の中腹にある「住吉神社」。中世には後述する「妙義寺」の境内にあった神社で、七尾城廃城後の万治元(1658)年、七尾山中腹に移築され、現在の社殿は寛文4(1664)年に再建されたものです。


城の旧大手門は市内にある「医光寺」で見ることができます。中世の七尾城の建造物としては、現存する唯一のものです。


七尾城から益田川をはさみ、城からおよそ900m北西に益田氏の館「三宅御土居跡」があります。

三宅御土居は周囲に土を盛り上げて高い土塁を築き、川などを利用し堀としていたことが推定されています。
この場所に築かれた理由としては、ここが舟運を使った物資の流通、交通などの重要拠点であり、かつ島状の微高地であったからと考えられています。東西190mもある大きな館で、益田川の北側を開発するためにこの地に来た益田氏の拠点となったと考えられています。上空から見ると長靴のような形をしていますが、これはもともとの地形や川の流れをそのまま利用したのではないかというのが山村先生の見立てです。


三宅御土居を囲む土塁の高さは5mにもなり、登ってみるとその高さがわかります。
土塁裏側には、当時の堀の名残と思われる小川が流れています。

三宅御土居の築造年代は不明ですが、益田川北岸の開発拠点であったのならば、鎌倉時代前半には築かれはじめていた可能性があります。19代藤兼は拠点を七尾城に移しましたが、その息子の元祥の時代に再度三宅御土居に戻ったといいます。
「58水害(昭和58年7月豪雨)」と呼ばれ今でも語り継がれる浜田市・益田市の大水害の後、避難・救難救急経路確保などのため道路が三宅御土居跡を通ることになりましたが、道路下に特別な保護を行って遺構を守るとともに、井戸跡、東屋、鍛冶場跡が復元された公園施設「おどい広場」が整備されました。


益田に花開いた独特の文化

益田の歴史を語る上で外せないのが「雪舟」の遺産。これも益田氏の遺した功績のひとつです。
室町時代の禅僧であった雪舟は、大内氏が派遣した遣明船で明(現在の中国)へ渡り、水墨画などを学んだ後、日本へ戻り各地に庭園を築きました。これらは「雪舟庭園」と呼ばれ、その中でも代表的なもののうち2つが、ここ益田市内に残されています。
雪舟と親交があった15代兼堯が益田に招いたとされ、その時雪舟が描いた兼堯像は国重要文化財に指定されています。妙義寺近くには兼堯の銅像があり、益田に根付く文化の種を蒔いた領主として、今でも崇敬を受けています。


雪舟の庭園が築かれたお寺のひとつが「萬福寺」です。
萬福寺は当初、「安福寺」の号で益田川河口に位置していましたが、津波により流出してしまったと伝わります。その後、11代兼見が1374年に「萬福寺」を創建しました。その際、益田氏の菩提寺と定めました。
本堂は創建当時のもので、国重要文化財に指定されています。


萬福寺の石庭には雪舟の仏教感が表現されている、とご住職の奥様。
手前の池から築山に向かって様々な石が配置され、これは仏様が住まう理想的な世界として中国で信仰される「須弥山」を表しているといいます。
山村先生によると、益田氏にとって萬福寺は迎接館的な役割があり、庭を見ながら様々な会話をする重要な場所ひとつであったそう。戦乱の時代、領主として冷静な判断を求められる際、心を落ち着け整えるための場所だったのかもしれません。
萬福寺の雪舟庭園は、国史跡及び名勝に指定されており、今でも人々の心を和ませる佇まいを見せています。

時宗の開祖である一遍の思想に最も近い構成とされる「二河白道図」や、益田氏の南蛮貿易や茶の湯への関心の高さを示す「華南三彩貼花文五耳壺」などの文化財も、寺宝として今に伝わります。
すぐ近くには、伝益田兼見の墓もあり、こちらも必見です。


もうひとつの雪舟庭園が「医光寺」にあります。
医光寺の西隣には文明年間(1469〜1486)、雪舟が招かれたという「崇観寺」がありました。その際、築いた庭が残されています。崇観寺は戦国時代になんらかの理由で衰退し、「医光寺」として17代益田宗兼によって再興されました。


春はしだれ桜、秋は紅葉と、自然の移ろいを感じられる庭園です。
小高くなった場所に石を置くことで奥行を表現し、また、鶴をかたどった「鶴池」の中に、「亀島」を配置するなど中国の神仙思想を散りばめています。

家根原 宗丈住職によると、横から見る庭園もおすすめとのこと。屋内からも楽しめる庭園で、人それぞれの見方、感じ方ができる庭です。

以上のように、雪舟は2つの山水庭園を作り、その後全国を旅する中で各地に水墨画を残しました。晩年ははっきりとはしていませんが、最後は益田に戻ってきて東光寺(大喜庵の前身)で没したと言われています。
大喜庵の小高い場所には雪舟の墓とされる石塔が残っており、今でも地元の人々により大切に守り伝えられています。



中世を味わえるまち、それが益田の魅力


何気ない町の中にも、中世の歴史が顔を覗かせる益田。
益田を旅しながら中世を味わえる体験やスポットはまだまだたくさんあります。


益田の町の特徴は、神社仏閣が多いこと。
比較的大きな由緒ある寺院や神社が残されたのは、中世の時代に寺社の復興・維持を行った益田氏の功績に他なりません。


そのうちのひとつが「染羽天石勝神社」です。
国重要文化財の本殿と、上り藤に久文字の益田家の家紋入りの瓦が乗る神楽殿を持つ、見ごたえある神社です。棟札の写しから、天正9(1581)年本殿が焼失、その後20代益田元祥が大檀那(スポンサー)、父である19代藤兼が後見となって再建しました。安土桃山時代建築の特徴を感じさせる彫刻などが見られます。

また妙義寺は益田氏の菩提寺の一つであり、13代兼家の時代に創建されたと言われています。19代益田藤兼の時代に大きく再興されました。藤兼は長門国(現・山口県)の大寧寺から住職を招き、有力な寺院と関係を持たせることで興隆を図りました。

藤兼は妙義寺に葬られ、藤兼の墓と伝えられる五輪塔が境内に建っています。この五輪塔に使われている石材は、兵庫・六甲の御影石だといわれています。
2mを超える巨大な五輪塔で、市内でも最大です。
近くには兼家の墓と伝えられる五輪塔も立っています。

七尾城から三宅御土居に向かう途中には、「暁音寺」があります。

七尾城から三宅御土居を結ぶ東西の道と益田氏の菩提寺である「妙義寺」から続く南北の道が、寺の前で交わります。
この場所には、防衛のための「鍵曲がり」の痕跡があります。戦乱の時代、中世の城下町として、敵兵の進行を遅らせるための町づくりが行われていました。

「暁音寺」の境内は道路整備により本堂側へ移動していますが、道路の敷石が元の敷地を表しています。

写真は、「鍵曲がり跡」から「妙義寺」を正面としてみたところ。今は住宅街となっているここは、向かって右側(西側)は家臣の家々が立ち並ぶ武家屋敷、左側(東側)は字名に「犬ノ馬場」が残る、馬術の訓練場があった場所です。
益田では訓練場の名残だけでなく、浜辺で甲冑を着て乗馬できる体験メニューもあります。
時代を超えて武将気分を楽しめます。


益田では「中世の食事」の再現も行われています。
19代益田藤兼が毛利元就に振るまった料理を再現する、民間有志によるプロジェクトです。
益田家文書に残る献立と材料の記録からは、各地との交易によって得られた食材や、今でも益田の名産となっている魚介類などが使われていることがわかります。
高津川の鮎など地元食材だけでなく、当時は蝦夷地と呼ばれ、外国同様であった北海道産の珍しい数の子や昆布などの食材も使われていることが興味深いです。

益田の造り酒屋「右田本店」。15代目・右田隆さんは、「益田『中世の食』プロジェクト」の代表も務めています。中世の酒を再現した「与三左衛門」などを製造し、このお酒を使った“煎り酒(醤油が発明される前の調味料)”の開発にも取り組みました。
益田家が益田から長門国須佐に移り、城下町が衰退することを憂いた右田義正宗味は、「宗味市」を開催し、町の活気を取り戻す一翼を担いました。

「与三左衛門」は米をほとんど削らず、当時の仕込み配合・製法に則って作られています。仕込む際の水の量が少ないため、甘く濃い、とろりとした“みりん”のような風味がある酒に仕上がります。
当時は大変なぜいたく品で、浜田藩にも献上していました。
仕込みに使う水が少なく、櫂入れが重たく大変な手のかかるお酒です。
前述の “煎り酒”は、「与三左衛門」に梅干しとかつおを加え、地元の醤油蔵「丸新醤油醸造元」が手がけました。
右田家は伊丹で酒を学んでから、きれいな湧水とお米がある益田を選び、この地で酒造りを始めたといいます。1602年創業と島根県では最も古い酒蔵で、現在も宗味ブランドのお酒を造り続けています。
酒蔵見学も受け付けています(要予約)。


これらの史跡を巡り、そして最後に訪れたのが「櫛代賀姫神社」。
延喜式にも見える歴史ある古社で、益田氏から社領12石が寄進され手厚く保護されました。益田氏ゆかりの神社として益田家の家紋が社殿の各所に見えます。
本殿の具材の一部には、中世益田氏が再建されたものが使われています。


この神社の境内からは益田平野が見渡せ、高津川と益田川の河口を見ることができます。
この神社から萩市須佐の「高山」を見ることができ、交易のため行き来する舟はこの山を目印にしていました。さらに津和野の「青野山」まで見晴らすことができる場所です。この神社も海から見て目立つ場所にあり、舟から見た時のランドマークになっていたでしょう。


美しい益田の景観を眺めながら山村先生に今回の歴史巡りのポイントをまとめてもらいました。
中世益田を俯瞰的に見ると、「海も川もあり、また上流には山もあるという恵まれた地域」であることがとても重要なポイントとなります。中国山地からは銀や銅といった鉱物が産出され材木も資源としてありましたが、それらを運ぶための川という地形的前提がその発展を促しました。河川は山と平野をつなぎ、そこには町が出来上がります。町の経済発展、文化を推し進めた益田氏の存在という政治的基盤も整い、町の発展に関する条件をすべて揃えたのが益田でした。


中世益田の人々は特徴的な地理や地形、地域資源を最大限活かして繫栄しました。


また山村先生は、益田氏が去った江戸時代以降、益田に城下町が建設されず、大きな都市改造がなされなかったことが、中世の姿を溶け込ませた今の益田が出来上がった要因だと分析。江戸時代の大都市である城下町にならなかったことが、結果的に見ごたえのある景観や個性的な地形が残されたと考察されています。

今後、我々に託されたこの地域資源をどう活用していくのか、どう保存、復元していくのかがこれからの課題となりますが、まずは地域の人たちの関心と、誇れる歴史を持つふるさとの魅力への認識を高めていくことが大切です。
既に多くの動きもあります。日本遺産への認定はこれまでの活動、これからの活動を後押しするきっかけともなりました。今後も益田氏ゆかりの文化財や歴史的観光地への理解と共感、かつ発掘や研究が行われ、地域の持続可能性の確保へと続いていくことを願います。










山村 亜希(京都大学教授)
博士(文学)
2001年 京都大学博士課程修了、学位取得
2001年〜 京都大学助手
2003年〜 愛知県立大学講師・准教授
2015年~ 京都大学准教授
2019年〜 京都大学教授
専門分野と研究テーマ
歴史地理学
中近世都市(城下町・港町など)の立地と形態、都市空間の復原
著書
『中世都市の空間構造』吉川弘文館,2009年
史跡に関わる国・市町村の有識者会議委員
史跡益田氏城館遺跡群整備検討委員会委員(益田市教育委員会)
中世城館遺跡・近世城郭遺跡等の保存に関する検討会委員(文化庁)
文化審議会専門委員(文化財分科会)(文化庁)
ほか多数
テレビ等への出演
NHK『ブラタモリ』名古屋・熱田編、酒田編

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